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掲載開始 05/01/14
最終更新 09/12/14

 

或る戦闘機(川崎キ61三式戦U改飛燕)の戦後史

 


修復後はじめて展示された航空博覧会(1963年二子玉川園)での美しい姿 撮影GETA-O

目 次

〔1〕 1945〜1953  横田基地での記録 
〔2〕 1953〜1962 日本航空協会へ譲渡 修理までの記録
〔3〕 1962〜1986 修理後の記録 全国展示 
〔4〕 1986〜現在 知覧市へ期限付きで貸し出し中
〔5〕 お便りなど

資料提供協力者名
GETA-O、酣燈社、横田基地広報部、同資料部、文林堂、masa、JO1RBO、にがうり、丹羽八十、超空豚(はねぶた)、和山寿志、かかがみがはら航空宇宙博物館ボランティア控え室、HAWK、かつお、櫻井隆、杉山ひろかず 、井上剛、まさ、青木忠、大久保滋幸、大木真一、吉田家、つづき、守屋憲治、マツ・モデルデザイン松野博、HSC-M、阿施光南 、瀬戸孝文、JUN、布川章 YS45、インプラント、PAPPY、Miyazaki     

まとめは佐伯邦昭
      いうまでもありませんが、すべての写真の無断使用を禁じます 

 

〔1〕  1945〜1953  横田基地での記録


 
本機は多摩(福生)飛行場の日本陸軍航空審査本部所属であったといわれています。終戦時に福生へ集められた180機にのぼる日本軍用機のなかで米国へ送られた3機及びキ-115剣とこの飛燕が辛うじて破壊を免れ生き残りました。本機の戦後史がここからはじまります。 
 

横田基地で最も古いと推定される写真

1946年8月15日 陸軍横田基地が恒久航空基地として日本占領軍へ引き渡された式典の写真に写っている飛燕
(横田基地史料部提供 USAF photo)

拡大  日の丸が残っているところから17の文字など塗装は日本陸軍のものと推定されます。

航空ファンイラストレイテッド110 太平洋戦争日本陸軍機(発行2000) 30ページ (転載許可済み)    
 
 
この写真は、文林堂所有の5枚のうちの1枚で裏に1946と書いてあるそうです。縁石で囲ったサークルの中に展示してあります。 上の写真とほぼ同時期の撮影と思われます。
1947年の空中写真  提供 TRON (国土地理院許可済み)                                                                    
1947年 提供 横田基地
1947年(推定) 提供 横田基地
   
エンジン中央部のパネルの一部が紛失している模様 矢印
木造兵舎(後に火災で焼失)前の展示 提供 masa
 
 左主翼の前縁のランディングライトのフェアリングが失われています。
提供 masa
     
 
 右後方にベースオペレーションの塔屋(戦中は福生飛行場の管制塔)が見えています。 
 下記、米軍マークの時と同じ場所での展示です。樹木の繁り方が違います。
航空ファン世界の傑作機シリーズ4集 飛燕(発行1967) 7ページ (転載許可済み)

 この写真では、日の丸は米軍マークに変えられ、垂直尾翼にUS AIRFORCE 0022111と記入されています。展示中はタイヤに砂を入れ、要所には油を塗って錆び止めするなど気を使っていたそうですが、風防は開いたままでした。星条旗の横枠の赤いラインは1947年1月17日にAN-I-9bにより制定されているので、少なくともそれ以降の塗装になります。

 垂直尾翼の方向舵の塗色が機体と異なるのは木造兵舎の火災によって方向舵と昇降舵が燃え、日本人駐留軍要員が修復したためです(守屋 憲治)

木造兵舎火災後に移動されて展示 提供 masa 

 左主翼の前縁のランディングライトのフェアリングと機首上面パネルはアルミ板で塞がれて塗装されています。修復されたと考えても良いと思います。
 移動されて展示された場所もゲート近くのロータリーとの説が在りますが、少なくとも同じ建物の前で展示されていたと私は考えてます。
 
1949年(推定)三軍統合記念日の写真 提供 横田基地 東京都横田飛行場参照        
1950年(推定) James Landrum  提供 横田基地

車輪がなかば埋もれた状態になっています。

 

〔2〕 1953〜1962 日本航空協会へ譲渡 修理までの記録 

記       録         

1953/12/17〜20 日比谷公園で展示

 ライト兄弟の初飛行日からちょうど50年目にあたる1953年12月17日から20日まで東京日比谷公園で日本航空協会主催新旧国産飛行機展示会が行われ、横田から飛燕とキ-115剣、入間から櫻花、東北大学から モ式六型、新立川航空機から製作途中のR-53練習機が展示されました。 飛燕はこの年に米軍から日本航空協会へ譲渡されていました。

航空ファン世界の傑作機シリーズ4集 飛燕(発行1967) 49ページ (転載許可済み) 

 横田から出展の飛燕は、トラックで運搬中に道路幅をオーバーしたため、両主脚の付根から外側の主翼を切断し、その状態で展示されました。(キ-115剣も翼を切られています。)米軍マークは日の丸にかわり、尾翼の米軍シリアルナンバーも消してあります。状態は横田展示中と同じで風防が閉まっておりません。

 展示会の後、飛燕と剣は三鷹の運輸省運輸技術研究所の1階倉庫に保管し、剣はその後東京都立航空高等専門学校へ移されました。
1954末又は1955初頭 熊本市市電開通30周年記念交通観光博覧会

 46日間にわたって開催されF-94B、L-17、飛燕、剣、モ式展示

航空情報1955年2月号読者のページから 写真募集
1955 名古屋市 名古屋城の展示会

 「飛燕はすごく汚く色もはげていて、所々めくれている、おまけに丸太棒が突っ込んである。でこぼこの剣も一緒」 投稿

世界の航空機1955年6月号読者サロンから 写真募集
1955頃 千葉県谷津遊園地で展示 提供 にがうり

 
 
にがうりさんが子供用の小さなカメラで撮った写真が古い資料の中にありました。

 場所は、谷津遊園(習志野市)。1955年ごろだろうということです。日比谷で切断されていた外翼は復旧していますが、風防などは更に荒れています。

 
日比谷に展示された後の保管や巡回にあたっての管理もかなりずさんだったようです

1956/03/20〜05/27 近鉄あやめ池遊園地航空広場に展示 撮影1956/04 提供 瀬戸孝文

 米軍F-86F 24583と特攻機キ-115剣も展示(世界の航空機1956年8月号ローカルニュース)  操縦席だけでなく、羽布ははぎとられ、垂直尾翼の上部は壊されています。
1962/12/12 修理のため第5空軍へ引渡し

 米第5空軍 司令部広報のリード少佐の斡旋により、立川基地整備隊で修理されることになり、12月12日三鷹の運輸省技術研究所で機体が引き渡されました。修理には、土井武夫氏など旧川崎航空機の技師、都立航空工業高校の生徒も駆り出されたそうです。

 

〔3〕 1962〜1986 修理後の記録 全国展示 3

1963/03/16〜05/31 東京都二子玉川園 航空博覧会に展示 正式に引渡し  
提供 GETA-O

 航空博覧会初日に飛燕の返還式が行われ、在日米軍司令官から日本航空協会荘田会長に引き渡されました。閉会後、日本航空協会は、防衛庁に保管を依頼し、知覧市に貸与するまでの23年間、岐阜基地で管理保管されました。
 塗装はグレイに日の丸、主翼内翼前縁オレンジ、スピンナー朱色、プロペラの先端に黒帯と黄色、背面は黒、垂直尾翼に17の文字です。左右水平尾翼の下の胴体に陸軍三式2型戦闘機 飛燕と黒で記入してあります。

修復完成記念に製作されたと思われるネクタイピン 提供 HSC-M

1964/11/03 航空自衛隊創設10周年記念 入間基地に展示 提供 青木 忠

(グアムの零戦の贈呈式も行われ、初公開されました。零戦は現在航空自衛隊浜松広報館に展示)

提供 大木真一

1965/03 熊谷基地公開  提供 PAPPY



 1965年3月、桜がまだつぼみの時ですから3月後半と思いますが、航空自衛隊熊谷基地公開時に室内展示されていた飛燕です。T-33Aのエンジンのカットモデル等が置いてある資料館に展示されていました。
1965/夏 戦争資料展 (東京都新宿西口京王デパート) 写真募集
1965/10/11 大阪市阪神百貨店屋上 観覧車から撮影吉田家の父 提供 吉田家


 今のところ、カラー写真としてはもっとも古いものです。
1966/04/03〜 防衛博覧会 (兵庫県姫路市 姫路城付近) 航空情報1966年6月号投書欄より 写真募集
1967/04/14〜06/12 東北大博覧会 (宮城県仙台市)参照  写真募集
1968/03/24〜05/26 航空科学博覧会 (東京都読売ランド) ヒコーキ雲54 写真募集
1970〜1971 岐阜基地に展示  提供 杉山ひろかず

 JUNさんからの情報
 1969年7月各務原へ住み始めたときには飛燕はなく、1970〜1971年には確かにこのような状態で展示してありました、翼に乗って遊んだりした記憶があります。1972年秋に各務原を離れる時にはありませんでした。

 浜名湖さんの展示位置の推定
 前後の建物やバックの山(三井山らしい)などから、広報資料館(旧将校集会所)の北側あたりではないかと思われます。

1971/05/23 航空自衛隊岐阜基地航空祭 航空情報1971年8月号投書欄より 写真募集
1972/03/19〜06/11 大航空博覧会(愛媛県今治市 唐小浜観光センター 主催テレビ愛媛)  提供 かつお 

 
1972/10/22 航空自衛隊岐阜基地航空祭 提供 GETA-O  
1973/05/06 わんぱく祭り (名古屋市栄公園)  零戦とともに展示 空のむかしばなし3投書より 写真募集
1973/09/03 航空自衛隊岐阜基地航空祭 提供 GETA-O

1975/04/24〜05/06 藤沢市志沢百貨店屋上に展示 提供 Miyazaki

航空情報1975/7グラビア (転載許可済み)
  

 
1975/11/30 航空自衛隊岐阜基地航空祭 提供 GETA-O   

 日の丸に白の縁取りががつきました
1975/11/30 岐阜基地でのクローズアップ写真  提供 マツ・モデルデザイン松野 博

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1976/10/17〜24 国際航空宇宙ショー(航空自衛隊入間基地) 提供 にがうり 

和山寿志
   
 国際航空宇宙ショーは空前の人出で大混雑、和山寿志志さんは押されるようにしてゲートをフリーパスし、この未使用チケットを今でも持っています。

1978/05/14 ナタリー遊園地 (広島県佐伯郡大野町) 提供 幸田恒弘

 F-104J F-86F ケイデットJA3641などと一緒に展示されました。プロモーター役の人又は企業がいて、各地の遊園地やイベントに売り込んでいたのではないでしょうか。
1978/11/12 岐阜基地航空祭   提供 KUPANBA
    
参考1979/03/15〜06/03

エキスポランド「世界の飛行機博」 (飛燕は展示されていなかった)

Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、櫻花(大阪エキスポランド展示)

1979/09/15〜11/30 愛知県犬山ラインパーク「航空博」 犬山ラインパーク航空博のチラシから  提供 阿施光南

 
Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、櫻花(大阪エキスポランド展示)、飛燕、F-104DJ、F-86F
1980/03〜06 熊本県三井グリーンランド「航空博」 提供 まさ 

 
Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、櫻花(大阪エキスポランド展示)、飛燕、F-104DJ、F-86F
 この頃に塗装が大きく変わり、全体が暗緑色(主翼下面はグレイ)で、スピンナーが白色、胴体日の丸に白色の帯と戦闘部隊帯がまかれ、尾翼に第244戦隊マーク (らしきもの)が記入されました。 
1980/07/29〜09/07 池袋三越 航空博覧会 主催財団法人日本航空協会 後援朝日新聞社
提供 インプラント

提供 大久保滋幸

 FA200(JA3241)、F-104DJ(46-5020)、グレートレーク、飛燕

池袋三越航空博覧会の飛燕 クローズアップ  提供 YS45 

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1981/08/01 空のフェスティバル  (桶川飛行場) 提供 インプラント 
 
1983/08/13 空のフェスティバル (桶川飛行場) 提供 インプラント 

 
時期不明 河口湖自動車博物館 パンフレットから  提供 FA300

 ちょっと見難いですが、ホール1の天井に飛燕が吊り下げられています。約2年間展示されていたようですが、詳しい時期は不明です。
1985/09/29 岐阜基地航空祭  提供 超空豚(はねぶた)

 

  翌年に知覧へ送られるため、恐らく本州における最後の展示になったものと思われます。

 

〔4〕 1986〜現在 知覧市へ期限付きで貸し出し 

1986/01/28 岐阜基地から知覧へ輸送のため解体して積み込み  提供 杉山ひろかず
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解体中の写真
  
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1986〜現在 知覧特攻平和祈念館 提供 にがうり(1998/11/30 許可を得て撮影)




 
少飛会の強い要請により、日本航空協会が知覧市に貸与し、知覧特攻平和祈念館に展示されました。

 塗装や人形は、館の性格上、知覧から飛び立った特攻機をイメージしておりますが、何故244戦隊なのかなどなど、論評の対象外という感じがします。一応、屋内に安住の場所を得て、機体そのものの管理については心配ないようです。

 しかし、これで良いのかと問われると、1962年の修復の際に考証されたであろう本機の来歴が全く無視された形になっており、感心しません。できうれば特攻という概念に直接関係のない施設で、飛燕のすぐれた技術を勉強できるような環境に置いてやりたいなあと思うのであります。

 なお、協会と知覧市の契約上の貸与期限はかなり前に切れているといわれています。(佐伯邦昭記)

 

       〔5〕 お便りなど5

 

或る戦闘機の戦後史に寄せて                

陸軍飛行第244戦隊史 著者   櫻井  隆    
櫻井さんのホームページはhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/

                

新宿西口
 私が初めて本機を見たのは、昭和40年の夏、新宿西口京王デパートの入口(地下)です。ちょうど終戦20周年ということで開かれた戦争資料展に因んだものでした。
 まだ無塗装アルクラッド板の地肌が多かったセスナを見慣れた目からすると、大変厚化粧で飛行機特有の質感が感じられず、色も陸軍機では有り得ないような白に近い色で、どうにも違和感がありました。

 実はそこからテレビ中継があり、「この飛行機に最も縁の深い人…」という説明とともに、小林戦隊長の奥様が登場されたのを記憶しています。後から聞きますと、その資料展に戦隊長の日記を出展しており、体当りの勇士である板垣、中野両氏も番組に出演されていたそうです。

244戦隊と3式戦2型
 現在知覧で244戦隊の仕様になっているのは、単に、244戦隊が有名で知覧で活躍したから…ということなのでしょうが、2型が知覧にいた可能性は、なきにしもあらずです。
それは、244戦隊にも2型が、ごく少数ですが配備されていたからで、戦隊の3式戦は後に振武隊6個隊に転用されましたので、2型が特攻用機となって知覧に来た可能性は、整備の問題からすれば極めて低いものの、皆無とはいえないと思います。

製造番号
 出版物には本機の製造番号を5017などと書いてありますが、これは、1型丁が4901まで、2型は5001以降の番号が付けられたという説から、5000+17=5017という類推で、実際には、1型丁の番号は5000以降も存在しています。
 想像ですが、おそらく、1型丁の末期製造分と2型の生産ラインは併設されていて、番号は双方に割り振られたのではないかと思います。

 番号といえば、ミケッシュ氏のまとめた残存日本機リスト(BROKEN WINGS OF THE SAMURAI 所載)には、本機のシリアルは「5070」となっており、もしこれが正しいとすると「17」は何なのか?ということになってしまいます。

塗装
 終戦後に撮られた塗装の状態が審査部時代のままなのか…という点は、私は疑念を感じています。
 前述のように本機の番号も不確定なので、製造時期がいつなのか断定できませんが、1型丁も末期製造分では、暗緑色ベタ塗り迷彩(5式戦と同じ)で出荷されていたはずで、2型も同じ時期に製造されているのですから、工場でこれと同じ塗装が施されていたと考えるのが順当だと思うのですが。

 審査部の2型は、常陸教導飛行師団の2型とともに帝都防空戦には度々出動して高性能ぶりを発揮していますが、同じく審査部から出動していた1型の1機は、暗緑色ベタ塗りでした。
 また、19年中はともかく、20年春以降、小型機空襲が日常化してからは、対空襲対策として、各部隊とも飛行機の迷彩徹底および分散秘匿に努めており、終戦時に無塗装であった機体はごく僅かです。

何故残ったのか
 武装解除後、占領前の福生(多摩)飛行場に整然と置かれていた完整状態(だったはず)の飛行機群は、空中写真から読みとれるだけでも120機はありますが、その中から何故、3式戦2型とキ−115だけが無傷で残されたのか、不思議なことです。

 これはたぶん、この2機が米本土へ持ち帰る候補になってはいたものの、結果として他の飛行場の機体(3式戦2型は伊丹から4機、キ−115は太田から)が選ばれ、船には乗せられなかった。しかし、大多数の機体がブルドーザーで飛行場外に押しやられ、本格的に破壊された時期には、まだ候補として温存され、整備のためエプロンに置かれていたからではないかと推察します。

 もしそうだとすれば、本機の塗装は、この整備の際に落とされた可能性もあり得ると考えます。また、製造番号が不明確なのも、審査部が持っていたはずの数機の3式戦2型の程度のよい部分を集成した結果ではなかろうか…とも、推理はできます。

 占領軍部隊の進駐は、厚木のように、いきなり多くの輸送機が来たのは全くの例外で、それ以外の全ては地上部隊がまず制圧し、第2段階の飛行部隊進駐に備えて応急の飛行場整備にあたりました。
 占領軍が撮った写真に写る日本機の多くは既に破壊されていますが、これは、飛行場整備の際、滑走路から最も遠い場所への乱暴な移動作業によって破損した結果です。これには、わざと破損させて無力化する意図もあったと思います。

参考までに占領軍部隊の進駐状況は次のようです。

多摩飛行場(航空審査部)9月3日深夜から4日午前、第1騎兵師団の兵員2300名
立川飛行場、同じく 3300名
調布飛行場、同じく 1000名
羽田飛行場、9月13日、900名

必読日替わりメモ676番 2005/01/22  横田飛燕の情報
守屋 憲治さん(千歳市)からのお便り

川l崎キ61三式戦改飛燕の戦後史について
  トップの航空博覧会(1963年二子玉川園)における機体は、私が中学1年当時、小学館の児童生徒向けタブロイド判新聞の第一面全面を修復なったカラーで飾り、私を航空フアンにした記念すべき美しい姿。巻末に「この飛燕に関して引き続き皆さんの情報を待ちます」とあるので知り得ていることを連絡します。

 1945〜1953上段の写真  石で丸く囲った中に展示してあります。この写真は横田基地のいずれかのゲートのロータリーに展示した時のものでしょう。キー115「剣」は、第3ゲートのロータリーに同様の形で展示されていました。

 1945〜1953下段の写真  垂直尾翼の方向舵の塗色が機体と異なることがわかります。これは上段の位置=ロータリーから下段=木造兵舎近くに移動後の写真です。兵舎の火災によって方向舵と昇降舵が燃え、日本人駐留軍要員が修復した後の写真です。

 以上のことは昭和40年頃の雑誌『丸』に写真と記述がありました。私を飛行機フアンにした機体だったので鮮明に記憶しています。蛇足ながら、知覧において「飛燕」とともに展示されている四式戦「疾風」が入間飛行場で飛行したときの感激は今でも忘れることができません。

1946年3月15日撮影で、masaさんはスピナーの赤色は塗り替えられていてオリジナルではないだろうと推定しています。これが守屋さんのいう木造兵舎火災の前なのか後なのか、場所はどこなのか興味がわいてきます。

日替わりメモ20100303番

○ 外国から特別展示記事 或る戦闘機の戦後史 飛燕にリンク

 アクセス解析をやっていた時に、「特別展示記事 或る戦闘機の戦後史飛燕」が3番目に閲覧が多いということは既に書きました。そのほとんどは、同好の人々のホームページからのリンク若しくはYahooやGoogleで飛燕を検索してのものですが、時折、The Many Faces of TONY "5017" By Don Marsh and Jim Long というホームページからのジャンプがありました。
 http://www.j-aircraft.com/research/jimlong/tony/tony.htm

 不思議に思って開いてみますと、確かに this list also containing a chronology of events in the life of Tony No. 5017 from a Japanese researcher, but in the Japanese language only: (日本人の研究者によるトニーNo.5017の年表を含むリスト、ただし日本語オンリー)なる言葉を添えてリンクされています。

 全体は、英語力のない私の判読ですが、日本ではいまだに疑問視する人もいる「17」なるナンバーをもって「serial number 5017」と決めつけていること、全国巡回でぼろぼろになっていたのを第5空軍が修復したのは、グアムの零戦が三菱で復元されて、1964年の航空自衛隊創立10周年記念式典に展示されるのに合わせたものであること、岐阜で福生の塗装から飛行第244戦隊塗装に塗り替えられた経緯など興味ある検証がたくさんあって、この機体の来歴に彩りをそえています。

 また、Faces of ‥とあるように、横田から知覧に至る塗装の変遷の6枚のイラストはよく描けているように思います。「17」が赤から黒に替っているし、外人が最も苦手とする漢字も尾翼下の陸軍3式二型戦闘機飛燕という文字は正確です。

 記事の中に、well-known writer Koji Takaki 及び Mr. NAKANO, who is a glider instructor in Tokyo(知覧塗装の張本人)  という日本人の名前も出てきますが、尋ねたところ不明です。心当たりのある方はお知らせ下さい。

 また、アメリカからリンクがされたのは、一つの超貴重な機体を時系列で大量に紹介している類例のない試みが注目を集めていることにほかなりませんので、もっと普及させるために、堪能な方に英語版を作って頂けないものかと思います。誰か手をあげてくださいな。 

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